臥龍桜
岐阜県高山市一之宮町、JR飛騨一ノ宮駅のすぐ近くに、地面を這うように太い枝を広げる一本桜があります。推定樹齢1100年余りと伝わるエドヒガン、臥龍桜です。
「臥龍」とは、地に伏した龍のこと。
低く横へ伸びた幹と枝は、確かに長い体をくねらせた龍のように見えます。ところが満開の姿を前にすると、伏しているというより、薄紅の翼を大きく広げて空を仰いでいるようにも見えました。
昔は「大幢寺の大桜」と呼ばれていましたが、昭和初期、大幢寺第20世の道仙和尚が、地に伏せた龍のような樹形から「臥龍桜」と名付けたと伝えられています。
長い年月の間には台風など幾度も大きな傷を負いましたが、人々の手で守られ、現在も飛騨の遅い春を告げる花を咲かせています。
臥龍桜 基本情報
項目 | 内容 |
|---|---|
名称 | 臥龍桜(がりゅうざくら) ※文化財指定名称:臥竜のサクラ |
桜の種類 | エドヒガン |
| 推定樹齢 | 1,100年 |
オススメ度(5段階) | ★★★★★ |
一言 | 地に伏しながら、今にも空へ飛び立ちそうな姿。 |
例年の見頃 | 4月中旬~4月下旬 |
撮影日 | 初回訪問 2016年4月下旬 最新訪問 2021年4月中旬 |
所在地 | 岐阜県高山市一之宮町275番地1 臥龍公園内 |
アクセス | 中部縦貫道 ・高山ICから約20分 中央道 ・中津川ICから国道41号経由約120分 ・松本ICから国道158号経由約120分 JR飛騨一ノ宮駅から徒歩1分 |
駐車場/トイレ | 駐車場有・トイレ有 |
| その他 | ・ライトアップ:無 ※園内にぼんぼりを灯す ・国指定天然記念物 |
参考URL | 飛騨高山旅ガイド 飛騨一之宮観光協会 |

飛騨の桜なら、まだ間に合うだろうと思っていたのですが、暖かい年だったのか、到着した時には見事に期待を裏切られ、すでに見頃を過ぎていました。
それでも春の名残を楽しむため訪れる人は他にもいました。

古木らしい幹と枝の姿は十分に見ることができましたが、やはり花の少ない臥龍桜は少し寂しく感じます。まだ間に合うかなというこちらの予定など、桜はまったく気にしてはくれません。(笑)

見頃を過ぎた時期に撮影した臥龍桜の全景写真。
この時は、またいつか満開の時に見たいなと思いました。

次に訪れた時はちょうど満開でした。
以前と同じような位置から眺めても、その印象はまるで違います。低く横へ伸びた黒い幹の上を淡い花が埋め尽くし、地面に伏した龍の体が、そのまま空へ向かって動き出すようでした。

臥龍には見えない角度もあるのですが、その分重厚な歴史を感じる風格がありました。

臥龍桜の名にふさわしい大きな枝ぶりと、エドヒガンの淡い花が一体となるのは、やはり満開の時です。薄紅の翼で空に舞い上がりたいような気配を感じました。

臥龍桜の根元には、古びた五輪塔が残されています。
これは戦国時代、この地を治めていた宮村山下城主・三木国綱の墓と伝わるものです。
天正13年(1585)、三木国綱は飛騨へ侵攻した金森長近との戦いに敗れて命を落とし、大桜の根元に葬られたと伝えられています。近くには三木家の祖霊社があり、臥龍桜は花見の名所であると同時に、三木氏ゆかりの場所でもあります。

最初に訪れた時は見頃を過ぎてしまっていましたが、年月を経て満開の桜を見ることができて満足です。斜面いっぱいに淡い花をまとった姿には、この時期にしか見られない迫力がありました。
思い出:再願の桜
人が同じ場所をもう一度訪ねるのは、同じ景色を見たいからだけではありません。
そこに置いてきた昔の自分を、迎えに行くためなのかもしれません。
私は何年かぶりに、その桜の前に立っていた。
再び訪れた理由を聞かれれば、「前は散ってしまっていたから」と答える。嘘ではありません。ただ、それがすべてでもありません。
旅人は、もう一度行きたい場所ができると、もっともらしい理由をこねくり回すのが上手です。(笑)
以前ここに立ったとき、私は何を思っていたのでしょう。
どこへ行ったのか。何を見たのか。そんなことはよく覚えているのに、その頃の自分が何を願っていたのかは、なかなか思い出せません。
ただ、いつかもう一度この桜を見たい。その思いだけは、心のどこかに残っていました。
桜は、地面に伏したまま、長い枝を広げていました。
そして今、私はここにいます。
あのときの願いは、すでに叶っていました。
願いとは、叶えば消えてしまうものだと思っていました。しかし、実際は違うようです。叶った願いの跡には、次の願いが静かに生まれます。
再訪とは、同じ場所をもう一度訪ねること。
そして再願とは、そこで見つけた昔の願いを、もう一度未来へ送り出すこと。
シャッターを切ったあと、私は心の中でまた願いました。
もう一度、ここへ来られますように。
桜は何も答えません。
千年を生きる桜にとって、人間の「また」は、ずいぶん短い約束なのでしょう。
それでも私は、帰り際に一度だけ振り返りました。
桜の下には、かつての私がまだ立っているような気がしました。

